昭和47年8月5日 朝の御理解

第45節 世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほど     かがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげる     ことを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
     とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一     番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱     ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おか     げを取りはずすぞ。


 世に三宝様を踏むなと。大切な物をという事でしょう。今日はここのところを神様のお働きそのものを無碍に、または踏みつけるような。または厄介物視するような生き方というものが、あの、三宝様を踏む事になるというような意味で頂いてもらいたい。ね、三宝様を踏むなと、目が潰れると。まあ、言うならば、信心して心眼を開かせてもらうと。ね、肉眼をおいて心眼を開けと仰るのですから、えー、肉眼をおいて心眼を、心の眼を開かせてもらうという事。ね。ですから、例え心の眼がだんだん開けて参りましても、なら皆さんの場合でも、言うなら難儀なら難儀というモノの観点というものが変わって来た。ね。それが、皆さんの心の眼が、薄ぼんやりながら、言うなら開いて来たからです。ね。

 例えば困った事だとか、腹の立つ事だといったような事でも。ね、肉眼で見た、人間心で見たところでは、それは確かに腹の立つ問題であり、困った問題ですけれども。心の眼を持ってすると、それはお礼を申し上げねばならない事ばっかりだといったような事が、小さい事柄の中から段々体験が出けて来るでしょう。ね。だからこそ、腹も立たんようになるし、または、事柄なども言うなら成り行きを大事にするといったような、その生き方というものが、まあ、それをそのまま神様の働きとして受ける心が出けて来るという事は、もう心の眼は段々開けかかって来ておるのです。ね。

 例えばそうして、ならようやく開けかかっておるのでも、またそういう生き方から外れますと、いわゆる信心を外れますと、せっかく開きかかっておるのも潰れてしまうというように、今日言う、三宝様踏むと目が潰れる。信心のまなこが開いた。心の眼が少しずつ開いて来よる。そこには、あれも有り難い事だ、これも尊いものだというような頂き方が出ける。けれどもその、油断をすると、信心がおろそかになって来ると、それを人情だけで片付けようとする。いわゆる、神様の言うなら御働きその物を踏みつけるような事をするから目が潰れる。せっかく開きかかっておる目が潰れるという事になる訳ですね。

 ところが、もうその、私共の場合その、おかげを段々受けてまいりますと、そのおかげが、自分が精進、努力した、自分が働いたからといったような、やはり慢心が出てきますね。ですから、そういう慢心の出ようのない、言うならば生き方といったようなものをね、やはり身に付けなきゃいけないと思う。昨日、一昨日でしたか、〔   〕一昨日でしたが。2~3日続けて見たんですけれども。
 ちょうど私が、ここを下がって、ご飯を終わった頃にテレビでですね、まあいわゆる未開地ですね。あの、アフリカ辺りでしょう、の人達の部落を訪問してまわっておる人がね、それを〔    〕に納めて。そしてそこの村むらの風習やら、変わった、言うなら私共がビックリするような、その、その村の風習なんかのところを回ってる。ちょうど、もうそれこそ着物、布一寸身につけないで真っ裸の生活をしておる人達やらね。

 いろんな、本当に珍しい、まあ本当に面白い風習がある訳ですね。それを、テレビで紹介しておる訳です。昨日、一昨日私見せて頂くのは、これはもう、やはりその着物やら、ここは〔  〕着ていますわね。けれども、もう本当にあの、まあ、こういう生き方、こういう生活で、その満足しておるという事に、もう私は心から関心した、その部落があるです。そこには、もうね、砂漠から砂漠をこう渡って、〔州をあきのうて?〕歩く村らしいです、そこは。えーラクダで。で、その日は何かちょっとお祝い事のようなことがあって、まあ踊ったり何かしてましたですけれども。

 だからその、〔盥?〕何かでも、何かこう色んなね、お御馳走を作るかと思うたらね、何もないのですね。もうその人達が言っておるのはね、その、塩と少しの水とメリケン粉があれば生きとくと言ってるんです。こう、火を燃やしてですね、〔    〕煮るとか炊くとかという事を全然しません。ですから、こんな丸い石をね、その火で焼くんですよ。

 ね、でその丸い石にメリケン粉をこうやって、ちょうど大きな、こんなに大きくですね、あの、〔             〕に、大きな。そういう、その焼けた石にメリケン粉をこうやっていう訳です。そして、丸くする訳です。で、それを今度はまた、その火で外から。中からの石は中から焼くという訳なんです。そして、焼けたところを、こうあの、ただこうやって蒸しって頂くだけ、水で。もう、スープなんかありゃあしません。青物なんか、もちろん砂漠の事ですからありゃあしません。

 それを見てその、その日本人の人が、いわゆる食べてるんですよね。例えば、今日はそのお祭りか何かだから、魚があるとか、肉があるとか、お汁があるとかと、そういう事じゃないの。また、ない訳なんです。けども、それで一生をやって行ってる。ほれで、これでその、まあ言うなら不満はないかという事を尋ねてるんですね。ところが、もうそれこそ怪訝そうな顔をしてからですね、もう自分達はね、健康で働いてさえおれば、この少しばかりのメリケン粉と、塩と、少しばかりの水は、もう限りなく与えられるんだと言うてるんです。

 だから、健康で働いてさえおればね、健康で働いてさえおれば、このメリケン粉と、言うならその、少しの塩と、少しの水があれば、自分達は生活が出けるんだと言っておる。果物を取る訳でもなからにゃ野菜を取る訳でもない。肉もいらない、魚もいらない。ね、それでその、いいのかと、こう言ってる。もう、それこそ、それを聞くその日本人の人にね、それこそ怪訝そうな顔をしてから、これが人間の一番の幸せだと、こう言うんです。健康で働きさえすれば、それが与えられるんだと。

 だから、人間は誰しもが働く事になってるんだと、皆働くんだと。そして、なら良い着物を買うとか、良いその家を建てるとか、〔調理品?〕を買うとかいうものではなくて、ね。ただ、少しばかりの、その塩と水とメリケン粉がありさえすれば。しかも、それで健康であれば、人間はこれが最高の幸せだと、こう言ってるんです。ね。それでも、病気なんかしたらどうするかち。ね、それは人間の心がけが悪いから、病気するのだから仕方がない。だから、もう皆病気はしないて、心がけが良いっちゅう訳。

 私は、もうそれを聞いてですね、はあ素晴らしい。こういう生き方をね、金光様の信心をさせて頂くんだと。ね、してみると今日なんか、今日の御理解のようにですね、天で頭を打つことがないです、この生き方だったら。ね、しかも、なら天で打ったらですね、どうしてかなんて、私がどうして〔    〕ならんか何かて、こう全然思っていないの。それは、自分の心がけが悪いから病気をするんだと思う。もう、もう〔きょくへん?〕ですね。また、事実そうですよね。

 だから、めぐりも作らないだろうと思うです。こういう生き方ですから。ほらあ、もう。だから、これを、もっともっと優雅に、豊かな例えば生活をさせて頂いとる、なら私共がです。ね、その生き方を学ばせて頂いたら、素晴らしい事だと思うですね。ただ健康で働かれるという事が、言うなら有り難い。そして、神様、何とか。やっぱ天地自然を、やはり神様というような頂き方をしておるんですね。やっぱそういう、その宗教もある訳です。

 そして、それがもう徹底してる訳です。人間は、健康で働く事だと。ね。なら、働いてさえおれば食べる事に不自由はしないと、こう言うんです。ね。なら、〔    〕とかでも良いのか。ね。もしなら、病気でもしたらどうするかて。病気はしないという訳なんです。そういう自然を、そのままに、自然と共に生活をして行くという生き方なんです。言うなら、まあ、あのね、野生の動物と同じ事なんです。もうそれこそ、自然の法則にピッタリ合うた生活なんです。ね。

 それを教祖金光大神はです、ね、私共の言うなら、人間。まあ、そこだって人間社会ですけれども、言うならば恵まれすぎとる私達なんですね。食べ物なんかだって、まあ色々な食べ物が与えられるようなお国柄の、国にこう住まわせて頂いておる。ね。段々、着物なんかでも、そりゃあ、どんな立派な物でもある。食べ物でも、まあそれこそ〔百目のもんじき?〕が食べられるような社会に、私共はおかげを頂いておる。ね。

 それで、私共の心の中に、いわゆる我情我欲が〔はびくって?〕、もちっとマシな家に住みたい。もちっと良か着物ば買いたい。もちっと何とか良かモンば食べたい。そして、楽をしたい。ね。あんまり働かんで金儲けをする方法はあるまいかといったような事に、その心を使われるほどしの豊かな、言うなら国柄に私共がおかげを頂いておるという事なんです。ね、砂漠の真ん中で、そげな事を思うち言うても、思う、思うその物がないのだ。いっちょ今日は魚を食べよう、野菜を食べようったって、その魚すら野菜すらがないのだ。

 だから、あきらめと言やあ、あきらめだけれども、ならそれで生きて行けれる術というものを、ちゃんと身に付けてる。メリケン粉と、少しばかりの塩と水があれば、自分達はもう幸せだとこう言ってる。そして、健康で働かれるという事は、この食べ物が与えられるという事。ね。だから、これほどの幸せはないと。それでも、そのまさかの時っち言うがの。病気どんしたらどうするかと。病気はこの生き方でさえ身に付けて行きゃあ、絶対病気はしないんだと。もし病気をしたならば、それが怠けたり。または、心に、ね、言うならば良くない事を考えたりするから、言うなら天罰を受けるのであるから。これは、仕方がない。

 だから、本人が改まって行きゃあ、またそこからおかげを受けられるという意味の事は言いませんけれども、そういう生き方だと思うんです。病気をしたら、だから恥かしい。ははあ、あれが悪い考えを起こしたんだなというような、その、そういう決め付けた考え方。〔    〕決め付けたというか、もうその、極端な、いわゆる自然主義なんですよね。他に買おうと思うても、得ようと思うても、その売る物が、買う物がないのだ。ね、だからその欲を起こさない。

 ただ、健康で働いてさえおれば良い。この働かれるという事が有り難いと、感謝を、祈りを捧げておる。そして、働いてさえおれば、この食べ物は必ず与えられると、こう言う。食べ物も、メリケン粉だけが主食ち言うか、もう主食も何も、主食もない訳です。塩を少し舐めてそのパンを食べるだけ、パンのような物を。メリケン粉を焼いたやつなんです。そして、それに水を。これも少量の水があればいいんだと、こう。

 それで、もうその、弱々しそうにしとらん、もう実に盛観なですね。もう筋肉でもこう、隆々とした風にしてるんですよ。ブターッとこう肥えたとなんか一人もおられん。もうキリキリしとる、男でも女でも。ね。私はね、そういう生き方を、金光様の御信心は身に付ける事だと。と言うてならば、メリケン粉しか食べられんというのじゃなくてですよ。ね。それは、神様が私共のここの世界には、いわゆる三界の珍味と思われるような、または良い着物やら、また良い、ね。だから私共がより優雅な生活をさせて頂く、そのさせて頂き方なんです。ね。

 例えば、そこに、まあカーテンがこうひいてある。まあ、これ、日をこうやって追うだけ。ね、日が照る時にカーテンを引く。ね、だからそれだけの為であったらです。これはもう、どんごろず?でも何でも良か訳です。ね、けれどもその、私共は、これがなら、今〔    〕をします、その、その国の人達の場合なんかはです、そういう物が全然いらない訳なんです。見栄がいらないわけ。

 ところが、私共の、なら私共の、ね。まあ文化人と言っておる、なら私達です、の場合は、こうして、きれいな家も建てられるから、その家に釣り合うた、マッチした。ね。品物の良し悪しじゃない、色合いから何から自分の気分にピタッと合ったような物をする。いわゆる、日をさえ、遮断する為のカーテンだけではなくてです。私共の心をより豊かに、優雅にする事のための働きを、言うならカーテンがする訳です。そういう事に心を使ってるんですね。これはカーテンだけの事じゃないよ。

 私共の日常生活の上にそうでしょうが。ね。〔早めにちりも誘うとか?〕、ね、さあ客間にはジュウタンの一つも敷こうとか。ね、日田の黒檀の、言うなら、調度品でも置こうとか。段々、そういう力が出けて来るに従って、そういう、なら、ように、な生活をさせて頂く事が許されておるのが私達なんです。ところが同じ人間であってもです、そういう物を見ろうち言うたって、買おうち言ったって、全然ないのだと。ね。ですから、もう本当に自然その物が、だから時計もない。こうやって見たら、もう今日は、今何時ぐらいだってすぐ分かるいう生き方なんです。ただ、健康で働いて、働けるという事が、もう一番有り難い事だと頂いて。そして、神に感謝を捧げる毎日である。

 そして、なら痛い痒いような事が起こって来たら、それは仕方がない。お前の心がけが悪いからだと、言ってる。だから、もういつも心がけを。いわゆる神様の心に適うような生き方を心がけさせてもらうから、病気などはない、病気はせんと言うておる。ね、だからそういう生き方をです。なら、私共が、んなら、このような贅沢な生活をさせてもらっておる。その中に生かして行こうというのが、私は合楽の信心だと思うですね。

 同じにです。なら、難儀なら難儀という問題でも、人じゃない、自分の心の中から難儀が生まれて来るんだと〔    〕ですから、同じでしょうが。それに徹することなんだ、だから。ですからね、天で頭の打つ、打ちようがない訳です、そういう生き方を身につけて行けば。ね。自分に力もないのに、ね。力もないのに、借金してからでも着物を作ろうとか。ね、借金してからでも良い物を食べようとか、飲もうとかといったような、いうその考え方がどんなに、言うならば三宝様を踏むような結果になるかという事になるのです。

 と言うてなら、そういう立派な物は身につけてならんかと言うのでは決してなくて。私共の、段々働きその物がです。あれ、ね、まあ言うならば百円の収入のあった人が、千円の収入があるごつなら、千円の範囲で生活をして行くという生き方がです。もう自然と共に、ね、神様の心に、言うならば適うた生き方をする事になるのです。そういう、例えば生き方をするから、言うならば、あの、ね、天で頭を打つといったような事がない訳です。いう、ね、ここで言われる、成り行きを大事にさせて頂きながら、ね、その時点を大事にして行く、尊んで行くという事。

 昨日は、神愛会でした。先生方ばっかりの信心共励です。昨日は、昨日、末永先生も来ておりましたし。それから熊本の富永先生も。ちょうど、〔  〕の若先生も見えた。それで、色々と、まあ、ほとんど私の話を聞いて頂く事になった訳ですけれども、お話させて頂いた事です。中に、富永先生がこういう事を話されました。今現在、合楽で言われてる、成り行きを大事にするという事。御事柄として頂いて行くという事。この成り行きを大事にして行くという事の素晴らしいという事を、私の、私をはじめ、私共の信者が、もう素晴らしい事だ、素晴らしい事だと、日々体験して行っておるという事ですという、いう話をしました。
 ね。それはもう、本当に素晴らしいおかげを受けておるです。私をはじめ、私共の信者は、成り行きを大事にさせて頂くという事がです、このように素晴らしい事だという事を、日々体験しながらの生活。そういう生活ならね、頭の打ちようがないです。ね。けれども人間が慢心を起こして、言うならば、その大切な物。そういう成り行きなんかを無視して。ね、言うなら実力もないのに、実力のあるような風をしたりするところからです。ね。働きが違ってくる、いわゆる、天で頭を打つような結果が生まれて来る訳です。

 もう本当に思いますとに、この頃から熊本で、私の方では、その集中〔  〕がもう何回も続いたち。それで今度移転しておられる所のお広間が、また移転をしようと。新築のおかげを頂きたいという話があっておる訳です。ね、けれども私は、まだまだ、そげな事はあの、アンタが思い立ちどんしなさんなと言うてから、まあ言うております訳ですけどね。あの、今度のその集中〔  〕で、お便所が小さいもんですから、あの、お便所だけは、なら作らせて頂こうという話が出来た。

 ね、けれども、先生が言われるのにです。とてもアンタ、近い内にアンタ、他に移転するとか、新築するとかと言いよるけんで、今頃、金かけてから馬鹿らしかのち、まあ言いましたち言う訳です。けれども、まあ、また雨が降って、その便所にいっぱいになったりしたら困るから、とにかく造るという事になって、造らせて頂いたら、貴方もうちょいと大きな大きな便所が出来ましてから、もう一年ぐらい繰り上げんで良かろうちゆうごたる大きな便所が出けた。ね。そこで私、そん時に申しました。あの、貴方自身が、ね、どうこうする訳でない。

 御信者さん方が思い立つという事は神様が思い立ってござるもんば貴方、貴方がもう移るけんで、そげなもんないらんて何てんちゆうような事、これから言いなさんな。はあ、ほんなこつそうですなあと言う訳でしたけどね。昨日もそれによく似たような事があった。原さん、朝の御祈念に参ってきてから。今あちら改造があってます。改築した、お店がきれいになりよる。それには見事なその、言うなら〔ちんりつ?〕が出けた訳です。それけん、良すぎるちいう訳です。そらあ貴方、原さん。アンタがしよる〔        〕ち私が言う。ただ、勿体無い、勿体無いち言うて頂いて行きゃ良かじゃないかて私が言う訳です。

 あの、今日私が言う、その天で頭を打たんで済むという生き方は、そういう意味にも頂かれるんですよ。だから、なら私に、ね、この頃から二十万もするような反物のお供えを頂いた。とても、私な勿体無うして着られんと言うて、押しやる事じゃないんだと。ね。それを、合掌して受ける事なんだと。良すぎるてなんてん、アンタ良すぎるって、それこそ神様が下さるとにケチばつけるとごたる事になるじゃないのち私。そげな考え方は止めなければいけないよと言うた事でしたけども、富永先生のそれもそうでした。

 もう近い将来に移らんなんかん知れんけん、便所だけに金をかけるとは勿体無いという、人間心がチラッと出た訳です。ね、だからそういうところも、成り行きを大切にして行くという事に入って来るんだからね。そこんところ皆さん、ちゃんと頂いとかなければ、いよいよ、より優雅なとかね、より立派な、豊かなという事になって来ないでしょうが。もう何時まあっでん私は、もうメリケン粉だけで良かち。何でん、さあお米も頂いたら、米のご飯も良かろうじゃないの。肉を頂いたら、ビーフステーキも良かろいうという事になる訳なんだ。

 それで、これは贅沢で、もう相済まんてん何てんちゅう考えは、その相済まんという、その思う心が相済まん。神様すいません、信心も出けんのにこのようなモン頂いて有り難いと言うだけで頂いて行きゃいいんだと。だから、普通で言う〔しはつけんやく?〕とは違う。ね、かと言うて、なら神様に頂いたその物をです。ね、大切に大切に頂くとか使うという事はね、あの、大事な事です。先日ね、あの、何の時。たまたま、あの控えで、あの、日田の綾部さん〔達2~3人で?〕お話をしておる時でした。その話をちょっと私聞かせて頂いてから、はあ、儲けだす人は違うなという思いがしましたんです。

 というのは、先日からある事で夜中にここに参って見えて、その晩泊めて頂かれた。ところが、どうも色々音がするから、はあ、これは、あの、水道が出っぱなしになっとるなと思うて、ずうっとお広前中まわって、どんどん出よるとこは閉めてくる。ところが電気が、そこにも点いとりゃ、ここにも点いとった訳です。ね。それで、もう本当にそれを私は消して回りましたとこう言われるんです。本当におそまつな事っですもんねち。したら、こういう事を言われるですね。自分の物だから、人の物だからと言うて、例えば電気ひとつでもね、人の物だからと言うて点けっぱなしするという、じゃなくて、それでも消さにゃおられんという者ならね、絶対金には不自由しません、儲け出しますという意味の事を言われたです。

 それで、例えばね、なら皆さんがです。ね、入って来る時に、下駄がこう汚れとるとば、平気で入って来るごたる事じゃ徳は受けられん。昨日私は申しました。お徳を受けた先生方の中に、たばこどん飲んだりちゅう人は聞いた事なかけん、もうたばこ飲みよるというだけでん、貴方は徳は受けられん、もう自分は徳は受けられんと思うても間違いないよて私申しました。ね。本当に力を受けて、ね、より例えば優雅な豊かな生活をさせて頂ける力が受けたならそうだけれども。
 ね。ですから、例えば、なら電気がです、ね、私も先日ちょっと出てみたら、まあ皆、御祈念終わって帰ってしまっておるのに、下駄箱ん所に一つ点いとるでしょう、電気が。あれが点きっぱなしじゃった。何十人という人が入っとるけれども、それを消そうとする者がない。だから、そのくらいな事が平気で見逃して行けれるような人ならばですね、もうお徳は受けられんと思うて間違いないです、自分は。とてもね、例えば人のモンじゃろうが、自分のモンじゃろうが、無駄な事がそこにあっとんなら、ちょいとこう、消して行かなきゃおられない。そういう神経を持っておらなければお徳は受けられない。

 まあ、綾部さんはそれ、そこんところをです、それが出来る人なら必ず儲け出すと、こう言われた。だから、儲けだしきらん者なあ、もう言うたっちゃ分からんですもんねという意味なんですよ、平気なんだ。ね、そして、〔    〕したっちゃ、それが人の物でんどもあるなら、もう平気なんだ。電気が点いとろうが、水が出よろうが全然問題じゃない。ね。だから、その成り行きを大事にして行くという事はね、頂きっぱなしといったような事じゃないです。頂いた物を大事に大事にするという事なんです。

 ね、神様から頂いた。ほおら、またなんこん、良か着物を着せて頂いたその日でしたよ。〔       〕だから、綾部さんがこう、畳んで下さった。もう親先生、貴方あげんお着になっとっと、もう素晴らしい、まあ良かもんに見える。これはしかし、もうやがて私、やがて二十年近くなるだけじゃあるけど、着ますよち言うた。なるほど、もうふせも、いっぱいしてあるし。ね。というね、私がもう、それはもう、それ、それこそ夏の例えば紋付なら紋付があるなら、もうそれこそ、どれだけ着たっちゃ良かごと、持っとるです。〔        〕着れる。

 ね、けれども私はそれを、ならつぎはぎしてからでも、つけとる。はあ、親先生が着ちゃるけんで、悪かモンでん良う見えるという訳なんですよ、言うなら。ね。私、昨日は話した。ちょうどあの、私が字を書かんならん事があったから、こう筆ば持ってきた。だから先生方言うたんですよ。私はこれはもう、一年と丸七ヶ月使いよるばいち、この筆は。ね。〔   〕がたまがってしもうた。それはよっぽど、良かそれは筆でしょうち。何のじゃろうか、二千円か三千円かする、しかせん、やっぱ安売りなんです。

 ね、けれども私はもう一年七ヶ月使いよる。ね、ですからね、頂い、頂く物はどげな素晴らしい物を頂いても良いけれども、それを粗末にせろという事ではないから、一応お互い心がけなければいけませんですね。大事にさせてもらう。私なここでメモをさせて頂く時でも、もうこげな風にもう、他所から手紙が来た何かしたつだけに、私はこげん書く事にしとる。ね。ですから、その辺のところをです。成り行きを大事にさせてもらうという事は、そういう事でもあるのです。と言うて、下さる物を、いんやこれは勿体無か、良すぎるけんでて何てんという事もいらない。そういう生き方をね、身につけて行くという事。

 お互い、もう嫌がうえでも感覚がこう冴えて来るというかね、鋭くなって来る、私共は社会におる訳です。ね、着物の柄なんかでも、そういう、今日私が申しましたような、その砂漠で生活しておる人なんか、そういう事全然なかろうと思うですね。はあ、この着物の柄は良かとか悪かとか。色彩感覚なんかないだろうと思う。ね。だからこそ、健康で働きが出けておるという事だけ、それだけが有り難い。しかも、その働きさえ出来ておれば、食べるもの、生きて行くという事の上には絶対与えられると、こういう事。

 なら、それだけで良いですかと。いいんだと。なら、けれども貴方病気どんしたら、どうするですか。こういう生き方で行きゃあ病気はせんと言うのじゃ。ね。神様のお心のまにまに生きておるという訳なんです。ね、けれども、なら私共は、ならそういう精神を、はそのままですけども、形の真似が、一偏にそういう生活に、とても出来は、何日でん続きゃあしません。ね、だから私達はより神様から与えられておるところの良いものが、より良く使わせてもろうたり、頂けたり。ね、お家でも、もっともっと素晴らしい御殿のようなお家にでも住まわせて頂ける事がおかげなんです。

 ね、けれども頂いた物を粗末にするといったような生き方は自然に反する、神様の心に反する。ね、そういう事をしよるから、天で頭を打つような事になって来ると。ね。今日一つ私共の思いの中だけでもです。ね。砂漠から砂漠に渡り歩いて、ね、塩、塩だけ、塩の商いをするんですね。塩だけを商む人達のその生活態度というもの。ね、その生活態度をですね、一つ身につけたい。それを真似するとじゃない。その心の状態を真似する。そして、困ったことが起きた、難儀な事が起こって来たら、それは誰彼のせいにせずに、それはアンタが神様から天で頭を打った姿だと頂かにゃならん。

 これも、間違いのない頂き方。ね。そのような一つの生き方には、もう病気はせんとこう言う。万が一、病気でもした、怪我でもさせて頂いたらです。それは、貴方が心がけが悪いからだと言ってる訳なんです。ね。そういう極端なごたるけれども、その生き方をですね、私共の、心の生き方の上にです、頂いて行く事が御事柄をとか、成り行きを大切にするという事なんですよ、実は合楽で言うておるのは。ね。そういう生き方を身につけるという事がです。ね。言うならば、原始的な宗教とでも言いますかね。

 けれども私は、天地金乃神様という神様の、ギリギリ根本のところはです。やはり、その人達が原始的な宗教を持っておる、それと同じだと思うです、根本は。ね。それを、私共は、ね、より豊かな優雅な生活をさせて頂きたいと願うところからです。ね、また天地金乃神様もです、そういうおかげを頂かせたいという願いからです。ね、私共の周囲にはあらゆる素晴らしい物がいっぱいある訳ですね。ね、デパート辺りに言ったら、もう本当に、ない物はなかちゆうほど沢山色んな物があるです。それはもう、誰の為に。みんな人間氏子の為に天地金乃神が作り与えたまう物なんです。

 ですから、その一番最高の高い物でもです。買ってきて、それを使わせて頂けるほどしのおかげを頂かなきゃならんけれども、自然を、働きを踏んづけるような生き方からは生まれて来ないという。今日は三宝様を踏むという事をです。ね、神様の、これは三宝様という事は、一番大切な物という事。ね、大切な神様の働きその物を無視する。それを踏み付ける、ね、ような生き方からはです、良い物は生まれて来ない。良し生まれてきたところでです、必ず人間だから慢心が出る。慢心が出ると天で頭を打つようなことになる。

 だから、今日は私は、ね。天で頭を打つような事のない生き方とでも申しましょうかね。そういう生き方をいよいよ身につけて行くところのおかげを頂きたい。ね。富永先生じゃないですけど、成り行きを大切にするという事が、私をはじめ、信者一同がです、もう本当に成り行きを大事にするという事のすばらしさ。ね、例えば集中〔   〕があった。はあ、困った困った、便所がいっぱいになって家が流れるごたると。例えば、言うような事でもです。その働きそのものを神様の働きとして、有り難う頂いておりましたら、ね、その、これはまた雨どん降るなら大変だから、これは先生どうでもお便所を別に大きなの造りましょうやという働きになって来たと。

 ね、その自然そのものの働きがです、便所を造らせる働きになって来た。そしたら、もう便所を造ったが最後、あの、雨が降らんごとなりましたて。もう、いかにその集中〔  〕も、言うなら日奈久教会の為に降ったんだというような頂き方も出来る訳なんです。それを、昨日は富永先生が言っておられる訳なんです。ね、〔   〕じゃないでしょうが。良い物が、言うならばそういう素晴らしい働きが起こって来る事の為に、日奈久教会の為に集中〔   〕もあったんだというような頂き方。一切がそういう風におかげになって、おかげと頂けれる生き方を身にいよいよつけて行かなければいけないですね、どうぞ。




                                     末永信太郎 ( 7月11日 )